人工知能万能説に異議を唱える!~【ビックデータと人工知能 可能性と罠を見極める】書評

こんにちは、哲也です。

 

IT業界ではAIがもたらす未来について様々な議論がなされています。

その中でも、最も賛否が分かれているのが、レイ・カーツワイル氏が提唱するシンギュラリティがきて人工知能が人類を超えるという説です。

欧米ではどちらかというとシンギュラリティが来ると多くの人に支持されています。

しかし本書ではシンギュラリティなどは来ない、人工知能は人類を超えないし、そもそも知能ですらない、と反対意見を述べています。

今現在の人工知能とはどのようなものか?

そもそも知能とはどうやって出来たものであるのか?

なぜシンギュラリティが来ないと言い切れるのか?

このあたりの事について詳しく書かれています。

本書を読んでいて思ったのが、やはり物事を多角的に見る必要があると、改めて気が付くことができました。

 

どちらかというと、僕はシンギュラリティがきて人工知能が人間を超えるのではないか、と信じています。

しかし、本書を読んでその考えが180度変わった、ということにはなりませんでした。

それでも世間の流れに流されるのではなくて、ちゃんと考察をすべきであると考えるきっかけになる書籍でした。

人工知能が人間を超えない理由

本書では人工知能が人間を超えることはなく、人間と同じように思考することもないとしています。

その理由としては、現在のAIの仕組みが統計学的なアプローチによって判断がなされているからです。

 

GoogleのAIがYouTubeの動画を解析して猫という概念をとらえた。

このニュースはAIの機械学習の一種であるディープラーニングの発達の成果を世界中に知らしめました。

ここでAIがどのようにして猫という概念をとらえたかというと、猫の画像を大量に読み取って、類似する画像から共通点を見つけ出し、猫と認識したということです。

AIのようにコンピュータは猫の画像を見ても、人間と同じように猫と判断をするわけではありません。

猫の画像は、色の集合体によって猫を映し出しています。

それを、ずーと細かくしていけば一種類ずつの色の集合体になります。

GoogleのAIは、猫の画像に含まれる色の配置などの共通点を見つけ出し、このパターンは猫であると認識した、ということ。

こう聞くと、何だか”知能”とは遠いようなものと思えてきます。

 

著者が警告しているのは、人工知能に対して手放しにその存在を受け止めるような考え方が危険であるということです。

GoogleのAIが猫と認識した。

この言葉だけを聞くと人工知能が人間を超えることが迫っているように思えます。

しかし、AIはあくまでも色の配置をパターン化して、猫と判断した。

こう聞けばその印象が変化するかと思います。

『なーんだ、結局人間とは程遠いじゃないか』って。

肉体なしの知能など存在しない

著者は人工知能という言葉自体に疑問を投げかけています。

そもそも人間の知能と全く同じ能力を持つ人工知能など作ることは不可能であると。

なぜなら知能とは人間が生存競争を生き抜くために生まれたものであるからです。

 

人が感情などを抱くのは、肉体から信号を受け取ったときです。

例えば、人は切り立つ崖の前に立ったら恐怖心を感じます。

何故かというと、高いところから落ちれば痛い、しかも崖ほど高ければ死ぬからです。

しかし、実際に死なない状況、例えばバンジージャンプをするにしても人は恐怖します。

何故かというと、子供の時から高いところから落ちれば痛い、という経験をしてきたから。

高いところから落ちる=痛い、という学習をしたわけです。

人の行動原理は苦痛から逃れることで決まります。

そのため普通の人は自分が傷つくようなことをしようとはしません。

これは痛覚があることから得られる教訓です。

 

このように人間が知能を獲得してきたのは、肉体の反応があってこそのものであり、その肉体がない人工知能にどうして人間と同じ反応が出来るのか。

人工知能がいくら人間の脳みその行動を真似しようとも、それは脳みその部分だけを切り取ったもので、肉体面を無視している。

これでは知能など獲得できるわけがない。

そう著者は訴えているわけです。

 

また、著者は外側からの観察と内側からの観察という問題もあるといいます。

外側からの観察とは、まさに科学者が人間の脳みその構造を観察することです。

内側からの観察とは、僕たち自身の主観的な視点ということです。

人工知能に反映されるのは外側からのアプローチだけであり、内側からの観察というアプローチが無視されている。

つまり、人工知能が本当に知能を獲得したか判断できないということ。

 

これの何が恐ろしいかというと、もし完璧な人工知能と呼ばれるものが出来上がり、それが人間の行動を決定するようになった。

しかし、実際は人工知能を陰で操る人間が存在し、その人間の思い通りに世界が動くという可能性。

こういった可能性を無視できない以上、人工知能万能説を唱えるのはいかなるものか。

そう訴えています。

人工知能の存在意義

著者が唱える人工知能の存在意義とは、機械が自発的に判断を下すようなものではなく、あくまでも人間の補助ツールとして活用すべきだというもの。

この人間+人工知能とすべきと主張しているのには、著者が集合知を信頼しているからです。

集合知とは、例えば瓶の中に入った飴玉の数を、50人くらいの人に推測してもらう。

すると全員の回答の平均値は、驚くほど正確な数値に近いものであるというものです。

 

これが実際に活用されたのが、チェスの世界チャンピオンVS.世界中のチェスプレイヤーという勝負です。

この勝負は2回行われたのですが、1回目は世界チャンピオンが勝利。

2回目は接戦の末、世界チャンピオンが勝利した。

この時2回目の対戦を請け負った世界チャンピオンは、今までのどの対局よりも緊迫したものだったといいます。

 

なぜ1回目は楽に勝てたかというと、チェスは先ほどの飴玉のように簡単な数字を答えるモノよりも複雑な思考が必要であったから。

では2回目は、なぜ接戦にまで持ち込めたかというと、大勢の人の選択を判断するリーダーがいたからです。

この時2回目は、かなりのチェスの腕前の女性プレイヤーが中心となってそのリーダー役を務めました。

この【集合知+専門家】という形こそが、人工知能の能力を最も発揮できるものだといいます。

 

ここでいう集合知とは、ビックデータです。

ビックデータの情報をAIが集合知として平均値を専門家に教え、それを専門家が判断する。

この方法であれば、専門家が今まで見逃していたり、無意識に判断軸から外してしまっていた可能性を拾い上げることもできる。

 

人工知能に判断をゆだねるのではなく、あくまでも判断するのは人間。

それもその分野に精通している人であるのが望ましい。

そう著者は伝えています。

僕が考えるGoogleの真意

Googleほどの巨大IT企業が著者の言う問題点に全く気が付いていないとは考えにくい。

であるのにAIが猫の画像を”認識”したというのは、他に真意があるように思えます。

なぜGoogleがAIが人間を超える可能性があると示唆するのかというと、そのほうが資金を集めやすいからではないでしょうか。

ここでAIが人間とはまだまだ遠い存在で、シンギュラリティは来ない可能性のほうが高い。

そうなればAIの開発のためにGoogleが集中することが難しくなる。

だからこそ、Googleはピエロを演じているだけなのでは?と僕は考えるわけです。

 

実際AIが人間を超えるかという問題は置いておいて、ビックデータをビジネスに活かすためには、その膨大な量の情報を精査するAIが必要不可欠。

それにはもちろん莫大な資金も必要になるし、同じことをappleなどの企業も実現しようと激しい競争を繰り広げています。

そういったライバル企業へのブラフであったり、株保有者などへの方便のために、あえてシンギュラリティの可能性をにおわせて期待させる。

期待が大きければ大きいほど、成功した時の甘い果実を期待して、出資者は多くなる。

これがGoogleがAIの可能性を多少誇張してでもすごく見せている真意であると考えています。

まとめ

冒頭でも述べましたが、僕自身はシンギュラリティ来る可能性はまだあると考えています。

しかし、それを手放しに期待するのではなくて、反対意見や様々な視点から客観的に判断する。

特に情報化社会に突入した現代では、こうした情報の取捨選択であったり判断が重要度を増していくと思います。

情報リテラシーを高めるためにも、また深い情報発信を出来るようになるためにも、多角的な視点を持つように心がけていく。

改めてそう思わせてくれた書籍でした。